そうだ、遺書を書こう!!!
玄子(げんし)です。
何の取り柄もなく、天地人に見捨てられ、イジメの標的にされていた私が
三国志と再会したことでどうやって人生を大逆転させたのか?
この章では三国志と運命の再会を果たして
終わりかけていた人生を再開させるべく留学をした
中学、高校、留学、するまでの出来事を綴ったのがこちら
ここからは、その後のお話となります。
目次
生きる理由?
成都での6年間三国志留学を終えた私は、人生を終えたも同然でした。
成都での日々は決して順風満帆ではなく、
トラブルやストレスはつきものだったけど
それでも、成都を嫌いになったり、ホームシックになることは
一度もありませんでした。
人の和の国、成都。
私の心を大きく成長させてくれた人たちとの縁は
日本にいては、100年生きても、得られないものでした。
その宝物を抱えて帰国した私を待っていたのは生きる理由探しでした。
心が、、、動かない
留学を終えた日から、私の心と時計は止まったまま
動かなくなってしまいました。
人情味溢れる成都との心の温度差があまりにも違いすぎて
私だけ空回っても、
丸く無難に収めることを求められて心が窒息しそうになりました。
で。そうなると、それまでは永遠だと思っていた縁さえ
いとも簡単に離れていきました。
まるで、成都に留学している私だからこそ、
友達でいるメリットがあったのだと言われているようでした。
私自身も、日本にいる私、つまんない!価値ない!意味ない!
って思い知っていました。
そんな私が唯一、心と時計の針を動かす瞬間がありました。
それは、成都の人たちとの電話。
とくに、玄子という字(あざな)をくれた道士さんたちは
成都にいたときと何ら変わらず、あの時のまま
真夜中であろうとも私を受け入れてくれました。
そうだ、遺言を書こう!
想い出に浸ることも許されず
自分自身の居場所も、生きる意味も、価値も感じられない日々の中
私がもっとも怖れたのは、
成都で得た宝物が現像されないフィルムのように
私の中からも忘れ去られて風化してしまうことでした。
何のために生きるのか、生きれば良いのか解らない日々に押しつぶされて
成都での日々を置き去りにして灰になるくらいなら、、、、、
遺言を書こう!!!
誰に見られなくても構わない。
私は私のために、成都での日々を書き遺したい!!!
私が生きた意味を、証を自分のために遺したい!!!
熱くなった心と、遡った時計の針
私が自分への遺書として準備したのは、原稿用紙と
成都での6年間、欠かさずに書き続けていた日記でした。
大好きな、大好きな三国志の英雄たちを追って
中国大陸で成長して行く自分の軌跡が懐かしくもあり、羨ましくもあり
止まっていた心は熱くなり
止まっていた時計の針は、、、6年前に戻っていました。
遺言書を書いている間にも
家庭内でのトラブルや、
大切な人との別れが勃発。
2003年〜2004年は、卒業というよりも
精神的苦痛を伴う別れが多かったのですが
そんな私を救ってくれたのは今も昔も変わらず、三国志でした。
三国志に触れているときだけ、会っているときだけ
生きることが許されて
生きることから解放されていました。
そんなこんなで、三国志に支えられた私は
どんなに辛いことがあっても、
それを吹っ切るように文字と命を繋いだ結果、
遺書は作品として出版されました。
その遺書がこれ!!
三國志游學記だったのです!
が!!!拙著が出版されたとき、私は中国にいたのですが、
この時に思っていたのは
「中国、嫌いになるかも、、、
中国から卒業するときが来たのかな、、、」でした。
あんなにも大好きだった中国で一体何が!?
気になったら次回も宜しくです!
今日もお付き合いいただきありがとうございました〜!