師せる孔明先生、幾度も私を走らす(23)〜命を浪費して人生最期の瞬間を思ふ〜

命を浪費する日々

留学時代は返信が追いつかないくらい、
沢山受け取っていた日本人の友達からの手紙やメールも、
私が留学を終え帰国した途端、パタリとやんだ。

成都にいない私に、繋がる価値を感じなかったのだろう。

手紙の宛先に「成都市」と書けなくなった私は彼らにとって、
会社を退職をして、
肩書きを失った元管理職のような存在になったのだろうと思った。

常に全力で生き、頭で考えるよりも先に
魂に動かされていた成都での日々と、
何事も無難に丸く収めることが大人の対応だと、
無言で迫る日本での日々。

心のバランスが取れないまま、
その激しい温度差にぶちのめされ、
情熱の活場所(いばしょ)を失った私は、
余生を過ごすように無感情のまま、
命を浪費していた。

壊れ易い心とは裏腹に、
人生を休みたくても休ませてくれない、
健康な体を恨みながら。

精神的に瀕死の状態に陥りながらも、
誰にも助けを求められない日々。

人生最期の瞬間にいたい場所

「孔明先生、まだそちらに逝ってはダメですか?」

毎朝、生きて起床している現実が辛かった。

それでも生きなければならない現実。

誰かに何をされるわけでもなく、
ただただ、生きている自分に耐えられない日々。

誰にも助けを求められず、
求め方もわからない現実しかないのなら、もう、十分だ。

そう考えた時、人生最期の瞬間、どこに居たいだろう?
と自問した結果、辿り着いたのは

「孔明先生!」

人生の師・諸葛孔明先生が永眠している武侯墓だった。