玄徳公、寡黙に地名を変える!

私に孔明先生を
引き合わせてくれたのは
玄徳公でした!

三顧の礼で孔明先生を
お迎えした玄徳公。

孔明先生とはかなり対照的です。
例えば・・・

玄徳公:感情を顔に出さない

孔明先生:感情が出てしまうので
羽毛扇で顔を隠していた説あり!

玄徳公:寡黙

孔明先生:言葉を武器にめった斬り!
(有名なのは舌戦群儒とか王郎とか)

この正反対なそれぞれの武器が
水魚の交わりを最後まで貫かせたのは
言わずもがな!

(当サイトは三国志演義の流れを
一通り知っている人向けに書いています。
誰にでもわかりやすく、ではなく!!
人物の紹介や背景の説明は必要ないよねって
レベルの方を対象にしています)

んで。今回ご紹介するのは

玄徳公、寡黙に地名を変える!

赤壁の戦いの後、
蜀を治めるまでの間の話。

荊州を治めていた玄徳公の元には
「玄徳公、お元気ですか?」
日々、荊州各地の領主から
玄徳公の近況を伺う
挨拶のお手紙が届いていました。

「そんなの部下に任せれば
いいじゃないですか?』と言われても

「いやいや、せっかく私のために
手紙を書いてくれているのに
それはないだろう」

義勇軍として乱世に舞い降りた
玄徳公ならではの
心配り。

1人の人間の心を
身分に関係なく大事にできる
玄徳公だからこそ
孔明先生も惹かれたのでしょうね♪

が!領土を広げるにつれ
玄徳公の仁政も広まり

お手紙の量が半端ない!
返事が追いつかないんですけど〜
って状態に!

「このままでは
手紙を書くだけで日が暮れてしまう」

そこで玄徳公は遂に
部下に任せる、、、ってことは
やっぱりしませんでした!

受け取る手紙の100%は
玄徳公の安否を気遣うもので

「(玄徳)公、安(お元気ですか)?」
から始まっていたので

玄徳公は

「(君の仕える)(私)は
(元気だぞ!)」って意味で

公安の2文字だけを
返信するようになりました。

(玄徳公のこういうセンスとても好き!)

ってことが暫く続き
やがて玄徳公が居たその地は

自然と「公安」に名義変更し
今でも「公安」のままなんだとか!

口数だけではなく
文字数も少ない玄徳公ですが

中国の歴史に影響を与える英雄は
やはり、違いますな!

なので。
そんな玄徳公に学ぶ人付き合い★

寡黙だからとか
文章苦手だからとか
言い訳にせず!

心を込めて
交流して生きませう!

 

玄子(げんし)