何がなんでもやりたいこと!が無くなったら

諸葛孔明先生に命と人生を救われた玄子(げんし)です。

13歳の時に三国志の英雄たちと再会して、孔明先生を人生の師と仰ぎ高校卒業後、単身、蜀の国の都である成都へ6年間留学しました。

留学するまでは「何が何でも留学する」という目標に向かって生きていました。

留学中は学びや刺激に満ちた毎日で、生きていることを実感していました。

あれからざっと20年・・・

何がなんでもやりたいことがない!

何がなんでもやりたいことがあればそれを励みに、目標として生きていけます。

が!留学を終えてから翼をもがれた状態の私にとって余生を生きる日々でした。

何が何でも、これだけはやらずに死ねない!ってものがなく

唯一、孔明先生の文霊想作活動をしている時に
「これだけは何が何でも!」と思うのが関の山。

生きることの楽しみよりも、生き続けなければならない義務が重いだけの日々。
なんとか「やりたいこと」を想像してみても
「別にやらなきゃやらないでも構わない」という結論がいく手を阻むので、とりあえず生きている感じ。

特に「社会に貢献しましょう!人に貢献しましょう!悩みを解決してあげましょう」的な言葉は耳にタコができるほど聞いてきたけど・・・

正直にいうと、13歳の頃、虐められていた私を社会も、人も誰も助けてくれなかった。
虐められる側も悪い、とか、私の存在をこの世から消し去ることが社会貢献ですか?とさえ思うほど。

そんな社会や人に対して恩返し、貢献したいと思えないのが本音です。

なので全然、心に響かない「社会貢献」「人を助けることで救われる」「人様のお役に立つ」的な主張。

で。考え方を変えてみました。

貢献、感謝するなら誰に対して?と。

すると「いうまでもなく、三国志の英雄たち。孔明先生でしょう!」と心が即答した。

生きるのに理由や目的はいらないという人もいるだろうけど、私は意味や意義がないなら必要性を感じないので、どうしても生き続けたいと自分が納得して生き続ける情熱が必要だった。

現代とか社会とか足並みを揃えずに自分の世界の中で自問自答して、やっと辿り着いた私のこれからの生きる理由、目的は

孔明先生の恩義に報いる!

尊敬愛する人生の師・孔明先生に救われた命。導かれた人生。

なのに私はまだ何も恩に報いていないと気づく。

そしてこれからの人生は、孔明先生への恩義に報いるべく生きたいと思った。

孔明先生に恩返しがしたいと思った。

具体的に何をするのかと言えば、文霊を想作する!!!

現代社会に対してまだ恐怖心やトラウマ、傷を抱いている私にとって、できる唯一の社会貢献。

孔明先生の文霊を想作することで、多くの人の生きるヒントや悩みの解決につながるのでそんな距離感で社会貢献できたら良いかなって思った。

孔明先生の恩義に報いると思えば勇気を持って頑張れる。

この命を孔明先生の文霊を想作することで爆発させたい。

そう思ったら、とりあえず何となく生きてきた世界が変わった。

諸葛流文霊想作家として志命を尽くすために生きたいと自発的に思えた。

こうやってまた生きたいと思えたことで孔明先生にまた命と人生を救われて希望を与えられたってことに。

孔明先生に受けた恩義、これからの人生で感謝を込めて報いて生きます!

諸葛流文霊想作家・玄子(げんし)