私淑(ししゅく)するわけ
諸葛孔明先生に私淑している三国志作家の玄子(げんし)です。
私淑とは直接、教えを受けることはできない尊敬する人を師と仰いで、その学問や人格に学ぶこと、です。
私淑(ししゅく)するわけ
三国志が大好きってだけで蜀の都・成都に6年間留学した私にとって、三国志は議論して史実追及をするものではありません。
現地の文化に実際に触れ、学んでこそ得られる縁は人生そのものを大きく支えてくれます。
机上の空論だけで審議されるような、そんな三国志は私には不向き。
三国志と三国演義の間違い探しをしたり、現代の価値観や尺度を押し付けてあの戦乱の世を生き抜いた英雄たちの命を杓子定規で測るのは、全然楽しくない!
それなのに、史実を追及して、あげ足取りをすることが正しい、絶対だと言わんばかりの風潮、、、。
それが好きな人は、それで全然構わないし、個人の自由なのですが、三国志の英雄たちの生き方に生きる希望や勇気をもらった人間にまでそれを押し付け、土足で踏み入る権利はありません。
史実追及だけが正しいって考えだけが横行してしまったら、敬意はなくなってしまいます。
三国志を好きになった人が安心して、三国志を楽しみながら生涯を共にする方法はないのだろうか???
そんな悩みを抱えていた私が出会った精神が、私淑でした。
「わたし、私淑しているんで!」
三国志と出会って、好きになってもその先に待っているのが歴史的な虚実議論だけだったらー
三国志が今日まで語り継がれることはなかったでしょう。
三国志の英雄たちに学び、勇気付けられ、導かれ、何よりもその生き方に感動し魂が熱くなったからこそ、三国志は今でも中国内外を問わず、愛され続けているのです。
私淑はあくまでも自分自身で自発的に学びを得る姿勢が必要となるので、自分と向き合ったり、学びを得ようって向学心がなければ何の収穫も変化もありません。
孔明先生だったらこんな時どうする?って考えるのも私淑例の一つですが、この時に思い描く孔明先生は、あくまでも自分の中の孔明先生。
専門家や著名人の評価は一切無視!
あくまでも人それぞれの自由です。
自分の中の英雄像までとやかく言われる筋合いはありません。
この私淑という精神概念と出会ってから、「わたし、私淑しているんで」って基盤ができたので虚実議論を絶対とする人たちとは思いっきり一線を画すことができるようになりました。
彼らが大好きな英雄をなんと言おうが、そんなの気にならないし、知ったこっちゃないのです。
前までは逐一、心を痛めていましたが、私淑するようになってからは「ふ〜ん」で終わり。
なのでこのブログも三国志の英雄に私淑したい人、私淑することで自分自身を高めたい方に向けてお届けしています。
三国志英雄に私淑することで、1800年の時空距離を超えてみるのもまた一興です♪