好きなこと探しより否定癖の見直しを!
玄子(げんし)です。
本当に好きになれる、本気で打ち込めることってありますか?
どんなに頑張っても見つからない?
そんな人には好きなこと探しをする前に、物事をハナから否定する癖がないか見直してみることから始めることをお勧めします。
目次
好きなことを探す前に見直したい否定癖
例えば、本気になれる好きなことが欲しいって思って、とりあえず気になることに挑戦してみる。
仮に、三国志ってことにして。
だけど、なんか違うな、合わないなって感じた途端、
「三国志のどこがいいのか分からない」
「三国志を好きな人の気が知れない」
「そもそも、三国志って話自体、胡散臭い」
「あんなのアイドル崇拝みたいなもんよ」
「三国志が好きって人にあったけど、服のセンスがダサくて失望した」
とかとか、とかとか。
三国志が好きって人がいるにも関わらず、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い精神で、三国志が好きな人の持ち物や、スタイル、挙げ句の果てにはその友達に至るまで、何やら上から目線で一方的に全力で否定する人いませんか?
いませんか?って聞くくらいなので、私は今まで会った事あります(^◇^;)
否定ばかりして、結局何がしたいの?
夢中になっていた時期は、まるで恋に盲目状態。
周りの友達や家族を巻き込んで、好きって想いを恋バナのように打ち明けることを楽しんだり、マイナーな知識を披露することに優越感を覚えていた、、、、のに!
好きって想いだけでグルグル回って終わっちゃうから、次の行動に出ないから、次第に想いも褪せて冷めていくと
「いっときでも、あんなのに夢中になった自分が許せない」
「時間とお金の無駄だった」「今、当時の自分にあったら殴りたい」とかとか
当時の自分自身を否定するだけでは収まらず、「そんなあなたに付き合わせられた人はどうなる?」って発言を平気でしてみたり。
そんな人、いませんか?
そのくせ、引き続き三国志を楽しんでいる人、三国志を追求することに幸せを感じている人を見ると、イラっとする。
だったら、聞かなきゃいいのに、「今でも三国志好きなの?」と根掘り葉掘り聞いてきて、三国志を楽しそうに語られると、不機嫌になって、気づけば毒まで吐いている。
そんな人、いますよね?
だったら、初めから聞くなよ、って話です。
結局、何がしたいのか分かりません。否定した先に何があるのでしょうか?
三国志が好きな情熱の内訳まで、今まで経験したこと全てを受け入れて付き合う覚悟がないのに、世間話として無理に共感求めなくてもいいよって思います。
監督じゃないんだから、、、
人との縁も同じで、どんなにいい縁を求めていても、会う人、会う人に対して否定から入ったり、自分の思い通りのセリフを言わなかっただけで価値観が合わない、と見下したり、常に相手に誠意があるかどうかだけを疑ったり。
思い通りのセリフや反応を相手に求めるって、映画やドラマの監督じゃないんだから。
そんな人との縁を大事にしようって思える人がいたら、それこそ良縁なのでしょうが、現実的にはどうでしょうか?
育て方次第でどんな花も咲かせられる縁と言う名の苗を、否定することを前提に育てていたら、相手も人間。気づきますよね。
たとえネット越しであろうとも、そういう感覚って伝わってくるもの。
だって、、、相手も自分も人間だもの!
同じく三国志に出会っても、私のように人生と情熱をかけて好きって人もいれば、いっときのブームや思い出で終わりって人もいます。
どっちがいい、ダメじゃなく。
自分と同じ道を選ばなかったからといって、相手を全力否定する必要は全くありません。
ただ、それだけの話なのですが、なんだか長くなっちゃいました。なので締めはやっぱり孔明先生に。
孔明先生の文霊(あやだま)
言葉は使い方次第で凶器になり
自分自身の存在というのは
関わった人の命運をも左右することがある
原典*孔明先生著「心書」
心譯*玄子(げんし)
凶器を振り回されたら近づけない
何でもかんでも、とりあえず否定しちゃう人に「否定ばかりしないで」って言ったら、きっと逆ギレ。
言葉では「わかっている」と言っても、ちょっと経つと分かっていると言った自分を否定するから切りがない。
下手すると、こちらの存在そのものまで否定するような言葉を平気で浴びせてくることも。
そんな否定的な言葉って受け取る側にとっては攻撃的で、ある意味、凶器にもなりますよね。
もし、誰かがナイフや包丁を振り回していたら、危険ですよね。
否定的な言葉って、そんなイメージです。
だから、近寄らないのが一番です。だって、傷つきたくないから。
逆もまた然り。
相手の思いや言葉を感情的に否定したくなったら、相手を傷つける凶器を手にしていることを思い出してみてください。
特に分からない、知らない未知の領域、未知の世界、新たな縁を前にした時、不安になってしまいます。
そんな時は、凶器を振り回しながら、喧嘩腰で一歩踏み出すのか、謙虚に学ぶ姿勢や、縁を広げようと思って明るく優しい気持ちで一歩踏み出すのか。
どっちを選ぶかは自分次第です!