孔明先生のプロフィール〜簡易版〜

目次

5分で入門突破!
壁画で見る
諸葛孔明先生って誰?

からの第一歩

〜簡易版につき淡々と〜

諸葛孔明先生、乱世に生まれる

西暦181年7月23日
(4月14日説もあり)誕生。

 

 

 

 

 

 

 

 

兄の瑾、弟の均、
二人の姉の
5人兄弟姉妹。

幼くして両親を失い
兄の瑾は継母と呉へ移住し、

孔明先生と均、二人の姉は
叔父の諸葛玄とともに荊州へ。

荊州で水鏡先生(司馬徽)、
龐徳公氏(姓:龐 名:徳公)らに師事。

また元直殿や崔州平氏、
龐統氏らとも知り合う。

二人の姉は諸葛玄の計らいで
荊州の名士に嫁ぐ。

孔明先生が17歳になった頃、
諸葛玄、死去。

孔明先生は弟の均とともに
故郷へ帰ろうとするも

元直殿や師匠に説得され
隆中の山奥に廬を結び、
乱世とかけ離れた隠居生活を始める。

 

臥龍、膝を抱いて「その時」を待つ

※孔明先生は考え事をする時に膝を抱える癖がありました。

隆中の山奥で晴耕雨読をしながらも
師匠に学び、
友と切磋琢磨し続けた孔明先生は、
眠れる龍「臥龍」と呼ばれるようになった。

黄夫人と結婚し、
荊州の太守・劉表と
親戚関係にはなったが、
諸侯に仕官することなく
10年の月日を静に過ごした。

その後「三顧の礼」を尽くした
玄徳公の誠意と志に感動した
孔明先生は
『天下三分の計』を献策し、
共に実現すべく、遂に歴史の舞台へ!

水魚の交わりと信頼を得た臥龍、覚醒す!

曹操軍に襲撃され長坂坡の戦いで
九死に一生を得た劉備軍。

命運を双肩に背負った孔明先生は、
水魚の君臣関係を公言した玄徳公の
人徳と信頼を最大の後ろ盾として
単身、呉国に赴き孫権を説得。

劉孫連合軍が成立した。

呉の魯粛殿や周瑜殿と力を合わせ
曹操軍100万を赤壁に於いて撃破!

これが世に名高い「赤壁の戦い」である。

※「赤壁の戦い」では
三国演義の名場面も多く生まれている。
特に周瑜殿との智と智を争う
水面上の駆け引きは見どころ満載!

 

赤壁の戦いで勢いをつけた劉備軍は、
荊州と蜀を治め
中国は魏、呉、蜀の三国鼎立の時代へ!

 

ついに天下三分の計を実現

 

玄徳公が(蜀)漢王朝の帝位に就くと、
孔明先生は皇帝を補佐する
丞相に任命された。

玄徳公が孔明先生に後事を託して
崩御してからは
後主・劉禅を補佐しながら
南征や北伐の指揮をとり
全身全霊の才知と忠義を尽くした。

蜀は危急存亡の秋(とき)を
迎えていたとはいえ

魏も呉も孔明先生を恐れ
蜀の領民は孔明先生を
畏れながら愛し、敬っていた。

中国の歴史上、孔明先生ほど
領民のために出来ることを
全てやり尽くした
政治家はいないとさえ言われている。

盡亮精神と忠義を貫いた不世出の偉人

234年8月23日(8月28日説もあり)

孔明先生は五丈原より天に還ったが、
生ける仲達を走らせ
全軍を無事に成都へ帰陣させた。

享年54歳。

孔明先生の墓前を護るように、
孔明先生が永眠する「武侯墓」には
54本の柏と「高尚」を花言葉にもつ
金木犀が植えられたが

三国時代に植えられた金木犀は
今でも毎年、
孔明先生の命日にあたる
旧暦八月の下旬に花を咲かせており
「漢桂花」と呼ばれ親しまれている。

赤壁の戦いで孔明先生が呉に赴いた際、
「このまま呉に留まって、孫権に仕えないか」
と言われたが孔明先生は

盡亮(亮の全てを尽くすこと)が出来ないから」

という理由で断っている。

孔明先生にとって
忠義心や才知は言うまでもなく、
自分の細胞の果てまで
全て尽くさせてくれる、
尽くさずにはいられない主君は

玄徳公だけであり、
五丈原で天に還った
孔明先生にとっては

それこそが「盡亮」できた人生
だったのではないだろうか。

 

◎サラッとあとがき◎

簡易版なので
完全版から要所だけを切り取って
ささっと簡潔にご紹介しました。

*この記事に使った壁画は
孔明先生の生まれ故郷で
私が撮影したものです。

本当はもっと関連写真を
載せてもいいのですが
敢えて壁画だけで
シンプルに紹介させていただきました〜。

孔明先生ってどんな人なのか?
そこはかとなく伝わって

孔明先生に敬意と好意を
抱いてもらえたら嬉しいです、

玄子(げんし)