周瑜殿の文霊に学ぶ★不安や危機感に苛まれるより大事なこと

人生の師・諸葛孔明先生を尊敬愛しすぎて
今日まで生きている
諸葛孔明先生ファンクラブ日本代表
諸葛丞相.comの玄子(げんし)です。

暗いニュースや情報が多く目につく
昨今ですが

それだけに気を取られて大事なこと
忘れていませんか?

目次

今日の三国志英雄の文霊(あやだま)

 

人生有死 修短命矣
周瑜殿の遺言より。
人は生まれたからには、必ず死にます。
ただ、(人それぞれによる違いは)
寿命が長いか、短いかだけです。

本題に入る前に

この遺言の原文を探すの苦労しました^^;

中国のサイト百度では
三国演義の原文メイン。
「周瑜 遺書 原文」って調べても

もしかして誰も、探せていないの?
ってくらい、三国演義の原文でしたが

それもそのはず!!

三国志の周瑜伝になかったのです!
普通はさ、周瑜殿の遺言なんだから
周瑜伝に書くのが普通じゃねえの?
陳寿さんよ〜って
思うのですが

陳寿ったら!!
(裴松之かもしれないけど代表で文責・陳寿)

魯粛伝に記載しおったわい!
内容が魯粛殿を推挙したものだから
魯粛伝に記載したのかもしれませんが・・・

やっぱり普通は周瑜伝じゃね?(−_−;)
重きを置くポイントが違うんですよね、彼と私。

ってことに気づき
もしやと思って魯粛伝まで読み漁ったら
やっと小さい文字で書かれているのを発見。

って苦労話を恩着せがましく(笑)
挟みたかった^^;

その心は!
苦労したんだから、ボケ〜っと読まないでね!
ってことです。

何が言いたいかといえば

如何に危機、不安を煽るかより大事なこと

最近よく目にするのが

様々な不安や危機感を煽る内容の発信。

ワクチン接種した人や
マスク着用への非難とか
これから先の危機を先行して伝えたもの勝ち

的なの。

けどさ。それ以上に大事なのって

これから先も

生き続けたいと思える

命と人生なのか、否か。

 

これは私自身が個人的に常々考えていることなので
あくまでも個人の見解です。

生き続けたいと思えないと
生きる気力も意味も湧いてきません。

私の場合は、です。

なぜなら、周瑜殿の文霊にもあるように

人は、どっちみち死ぬんです。
寿命が長いか、短いかだけの違いだけで
命には限りがあるのです。

不老不死の人は未だ嘗て存在しないのが
何よりの証拠です。

だったら、不安に駆られて
戦々恐々として生きるよりも
この人生を生きている奇跡に感謝して
楽しく前向きに希望を持って生きたい!

寿命よりも大事にすべきこと

周瑜殿はさらに
寿命の短さ、つまり36歳の若さで

寿命が尽きることに関しては恨んでいない

(孫策殿に会えるっていうのもあったのかなぁと思いますが)

ただ、志半ばで逝くことが心残りだと続けています。
(なので志の後継者として魯粛殿を推挙しました)

志、やりたいことを実現できるのは
生きている今だけ!

なので、不安や危機を煽る記事に目隠しされて
誰かや何か、生まれた環境や時代を恨みながら
生き終える人生ではなく

自分の命と人生に感謝できるような
生きた甲斐のある人生を生きてください。

大好きな三国志の英雄たちと共に・・・。

(このサイトは孔明先生を始めとする
三国志ファン向けです。
なので三国志ファンにとって常識的な
人物の紹介などは敢えて書きません。
書くと、、、興醒めするので^^;
ご了承くださいませ〜)

玄子(げんし)

追伸*古代漢語メモ

修は長いという意味。
なので周瑜殿の文霊も凡人的には

修短命矣ではなく
長短命矣でもよさそうな気もするし
その方が対義語っぽい気もしますが

敢えての「修」

修を長いという捉え方は
詩経が元ネタ。

周瑜殿の教養の深さが伺えますが
それを誇示するためではないでしょう。

だって・・・周郎でっせ、あんた!
今更そんなの誇示しなくてもいいのです。

じゃあ、その心は一体なんだと言えば
良い、とか素晴らしいって
意味も「長い」と解釈した場合には
含まれているので

漠然と長生きすることではなく
素晴らしい人生を長く謳歌できるって意味を
敢えて添えたのかなと。

〜私の妄想ですので、気にしないでください〜

(周瑜殿の人生が終わっても)
これから先、
孫権さんや魯粛殿を始め
遺された人たちには
素晴らしい人生があるんですよ
だからこそ、
ここで短命に終わる私の寿命は気にしないで下さね的な
周瑜殿の雅な優しさが籠められているような
そんな気がしました・・・。

だから何って言われても
ただ、書きたかった!

それだけですが何か?( ̄∀ ̄)

ではでは、告辞了~

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