髀肉の嘆って中国語で「髀肉之嘆」だと思っていませんか?

諸葛孔明先生の私淑弟子・玄子(げんし)です。

三国志や三國演義から
様々な諺や格言、名言成語などが生まれています。

大体の四文字熟語は日本の漢字で想像、理解できる内容ですが
ここで問題です!

髀肉の嘆って中国語でどう言うの?

玄徳公が孔明先生を三顧の礼で迎えるちょっと前に
劉表に言った言葉で

髀肉の嘆:活躍したり、名を挙げる機会がないのを嘆くこと

として使われています。

こんな風に馬に乗って戦場に出て
活躍することができないうちに
漢王朝の復興もできないうちに
年齢だけ重ねてしまい気づいたら
髀肉(ももの肉)がついてしまった〜
ってことです。

劉表が治める荊州は平和だったので
「無礼な!!」って思った家臣、きっと多数^^;

普段寡黙な玄徳公。
話すとピンポイントすぎて
周りが困惑しちゃうタイプです。

なので、関羽殿や孔明先生のように
玄徳公の言わんとすることを
本質を理解し、補足してくれる人って必須!

「殿〜、その言い方したら誤解されちゃいますよ」
って思いながらフォローしたのかと思うと・・・

なんだか・・・癒されます(^ω^)

髀肉の嘆に思ふ

髀肉の嘆に関しては
劉表も漢王朝の血縁者なのだから
このまま平和ボケしていたら危険!
って思わなかったのかなと疑問です。

この点が当時、兵力や権力、拠点がなくても皇帝になれた玄徳公と、
権力や兵力、拠点があっても皇帝になれなかった
いや、なろうとさえ思わなかった劉表の違いかも知れません。

漢王朝を復興させねばって思うことなく
玄徳公が進言した曹操軍と戦うことを却下し
臨終前に「曹操の大軍来ちゃうね、怖いね。
玄徳殿〜荊州と息子たちををよろしくね」
って平和に他界されました(−_−;)

多分、こういう経緯があったから
玄徳公は遺言として
「息子が補佐する器じゃなかったら
君が皇帝になってくれ!」

家臣の前で堂々と孔明先生に後事を託したのです。

だってさ〜、考えてもみてください!
孔明先生を始めとする
玄徳公とそれまで生死を共にしてきた忠臣が
宿願である魏討伐をしようとしたときに

かつて劉表の跡を継いだ息子が
玄徳公になんの相談もなく
「戦いたくないから、降参します」
って降参したように

劉禅が孔明先生に一言の相談もなく
「帝の命令と決定」だからと
魏に降伏したらどうする?
(っていうか、蜀の最期は実際そうなったし(;ω;))

玄徳公は自身の死に際して
自身や身内のことよりも
国家と国民を第一に考えていたので
あの日、あの時の、あの出来事を思い出し
危惧したのでしょう。

だからこそ、息子以上に自分自身の志を受け継いでくれている
孔明先生に後事を託したのです。

「言葉にはならない衝撃の出来事!
経験者にしか分からない」件。

んで!忘れていた訳ではありません!
本題は
「髀肉の嘆って中国語でどう言うの?」って話です。

え?髀肉之嘆じゃないの?って思いませんでしたか?

私は思っていました^^;

そしたら、違ったのです!!

中国語ではこう言います!
って言うよりも
玄徳公はこう言いました!!

髀肉復生

玄徳公が実際に言った言葉で
史書『三國志』に記載されています。

なので、中国の人に

「髀肉の嘆」を伝えたいときは

髀肉之嘆ではなく
髀肉復生
Bi  rou  fu  sheng

と玄徳公の言葉をそのまま、伝えてくださいね〜!

玄子(げんし)