三顧の礼に学ぶ!「思い込まない行動力」

三国志作家の玄子(げんし)です。

このサイトは三国志を知っている方に向けて発信しているので、三顧の礼とは何か?とか、登場人物の説明や時代背景と言った三国志における常識レベルの説明は省略します。

肝心な伝えたいことを忘れてしまう前に!

出来事に意味はあるのか?

 

三顧の礼で一度だけならまだしも、二度目も会えなかった玄徳殿。

関羽殿や張飛殿は「縁がないんじゃ」って思いました。

現代でも、2度も何らかの都合で会えなければ「この人とは縁がないんじゃない?」って自然に思います。

相手が人じゃなくても、行きたいと思っていた場所にやっと行ける時間とお金の都合がついて、さぁ!いくぜい!ってなったときに、何らかの事情で行けなくなった。

気持ちを切り替えて半年後、再びいざ、出陣じゃい!!と思いきやこの時も偶然、都合が悪くなっていけなくなったとします。

ってことが仮に起きたら「これは行くなってことか?」と思っちゃいますよね。

私自身も、会おうって約束していた友達が、3人続けてドタキャンされた時には「はぁあ?」って思いました。

これって人と関わるなってこと?私、嫌われるようなことした?って自分を責めたり或いは
揃いも揃って口先だけ!もう、友達なんて信じない!!って信頼できなくなることもあったりするわけです。

早い話が、偶然起きた出来事に「私への何らかのメッセージ」って関連づけて自己中心的な視点で解釈をしている状態です。

が!玄徳公は違いました。

「こっちが勝手に押しかけていなかっただけ。次回は居る時にくればい〜じゃん」

縁がないかもとか、考えやしない!偶然、タイミングが合わなかったんでしょうってだけの解釈。

2度めはお手紙も書いたのに返信がないことに、関羽殿や張飛殿は返事くらいよこさんかい!と苛立ちますが
「また来ますって言ったのに、返事いらなくね?」って自分の熱い志を孔明先生に伝えたかったから勝手に手紙書いただけだしって、至って普通です。

喜怒哀楽の情を顔に出さなかった玄徳公。

感情的になるようなことじゃないでしょ?って器のデカさだったのかも知れません。

 

で、どうすんの?って話

 

出来事に意味や学びを見出すなんて、面倒〜。
会えるまで会いにいけばいい。縁はそれから!!

と言わんばかりに玄徳公は3度の目訪問で孔明先生とご対面。

天下三分の計と孔明先生の人となりを直接自分の目で確かめた玄徳公は

「私が臥龍の翔るべき天になりましょう!」←私の中ではこうなっています。

孤高を持していた孔明先生を迎え入れたのでした。

誰にも仕官する気が無かった孔明先生の心を動かしたのは玄徳公の熱意と誠意でした。

仮に玄徳公が、2度の空振りに「縁がないのかも」「これが答えなのかも」って解釈をしていたら???

孔明先生は出師表で「三顧の礼に感激し、玄徳公のために尽くそうと決意しました」と当時のことを振り返っています。

大事なのは、起きたことに意味づけしてやらない理由を探して正当化することではなく、
起きたことに対して「じゃあ、次はどうするか?」って決まっていない未来に可能性を拓くことではないでしょうか?

ってことで。

この人生、この瞬間。
何が起きるか分からないからこそ、何か起きたら「じゃあ、どうする?」って可能性を考えて生きたいですね!

 

追伸:三顧の礼って思いのほか、学びがぎっしりですね。