三国志を自由に楽しめなくなったのは誰のせい?
玄子(げんし)です。
私が孔明先生の文霊(あやだま)に出会ったのは、、、ぉお!いつの間に!?10年も前のことでした。
目次
三国志を自由に楽しめなくなったのは誰のせい?
三国志の扉を開けたあの衝撃、覚えていますか?
ただただ、純粋に三国志の世界を楽しんで、三度の飯より三国志だった時空を超えた感動と興奮が全てだったあの頃。
一緒に生きているって実感していたあの頃を覚えていますか?
私は、ずっと変わらず三国志が大好きですが、いっとき、自由に楽しめなくなった時期がありました。
それは留学を終えて、帰国し、ネットで三国志を発信してからのことでした。
私にとっての三国志は癒し(о´∀`о)
議論や戦闘に関することよりも、英雄たちに学んだことや、彼らが愛した文化、民話伝説が大好き。
熱くなったり、癒されたりする三国志の楽しさをアメブロでお伝えしていました。
最初のうちは、楽しみたい人が集まってくれてワイワイしていましたが、そのうち楽しんでいるのが気に入らねーって人が現れます。
だったらブログ見に来なきゃいいのにね(^◇^;)
で、訊いてもいないのに、あ〜だ、こ〜だと上から目線で英雄たちの揚げ足取りをしたり、自分語りをコメント欄で繰り広げるように。
不快なコメントがつくたびに、励ましたり、元気付けてくれる方も沢山いましたが、そればっかりだと構ってちゃんみたいなので「これ、他の人が見ても不快になるだけだな」って感じるコメントは反映しませんでした。
が!そうなると今度はコメントを反映しないことに逆ギレ!
有り余る知識や、思い出を語りたいのかもしれないけど、楽しさで満たしたい空間に正しさや価値観の押し付けを持ち込まれると、なんか違うぞって思い始めました。
三国志が好きな人に悪い人はいない、みんな分かってくれる神話崩壊
好きなことって特別だから、どうしても、悪い人はいない、分かってくれるって思っちゃうんですよね。
現に、アメブロで刺客が現れるまでは、日本、中国問わず「分かってくれる」人たちに恵まれていたから。
いまでも個人的に交流のある人とは、奇跡の縁で繋がっています。
アメブロも商用禁止にする前に、感じの悪いコメント禁止にしておくれよって思いますが(^◇^;)
一つ記事を書くごとに、逐一揚げ足取りコメントがつくと、段々、ブログ更新が億劫になっていきました。
そして次第に、コメント欄と私の心は閉鎖されていきます^^;
で、たどり着いたのは、
大好きな三国志で、なんでこんな想いして、傷つけられまくんなきゃいけないの!?
ってことでした。
三国志が好きな人に悪い人はいない、みんな分かってくれる神話、崩壊です。
孔明先生の文霊(あやだま)との出会い
相手の役に立つこと、悩みを解決できることを提供しましょう!って言われるけど、私が抱えていた悩みは誰にも解決できませんでした。
気にしなきゃいい、とか、有名になってきている証拠、とか、誰でもアンチはいる、とか、万人受けしようと思うな、とか、言われるけど
そういうことじゃないんです!それが出来たら悩まないよって話だし、根本的にちょっと違う。
三国志が好きって人で、同じ経験をして、克服をした人を探す?ってどうやって??
三国志を議論するのが正しい、好きってのは甘ちゃん的な風潮の波の中、どうやってヒントを見つけるの?
そもそも、陳寿と羅貫中の描いた世界だけで優劣や是非を決めるのってどうなのよ?
あ〜も〜やってらんないわ!!!
そんな心の悲鳴も限界を迎えたその日、私は最後の賭けに出るように、日本を出て訪れました。
どこに?
ここに!
人生の師、諸葛孔明先生が座す武侯墓に!!!
孔明先生!!!!!!(´;ω;`)
孔明先生の墓前で、全部打ち明けました。
陳寿と羅貫中だけが判断基準の全てっておかしくないですか?と。
そんな粗探し、間違い探しをさせるために孔明先生たちは命をかけたわけじゃにのに!と。
熱い思いを込めた日本語と、中国語でも頑張って伝えてきました。
これって、、、密告!?Σ(-᷅_-᷄๑)堂々と伝えたので報告?
そして、そんな私に孔明先生が与えてくれた道が文霊だったのです!!!
陳寿でも、羅貫中でもない!文霊とは?
陳寿三国志か、羅貫中の三国演義か?ではなく
陳寿三国志でも、羅貫中の三国演義でもない、孔明先生に近づく新たな方法。
それこそが文霊(あやだま)でした。
孔明先生ご自身が書かれた書物に学ぶ。
と言っても、原文を訳して学ぶものではありませんでした。
最初は、普通に訳して終わり、かと思っていたのですが実際に著書である「心書」を紐解いたらー
♪──き─O(≧∇≦)O─た───♪
現代に生きる玄子が解釈して、実践するならどう訳す?と孔明先生に問われているようでした。
そして何よりも私の中の孔明先生像と文霊に刻まれている孔明先生が見事に一致!
三国志や三国演義にはない、孔明先生が伝える孔明先生の人柄を感じられて、心の距離が近づいた瞬間でした。