この命、爆発させたい!(5)〜孔明先生、反日感情を壊滅す〜

「え? そんな理由だけで成都に留学?」

高校の卒業式から半年経った九月。

私は孔明先生が『天下三分の計』を実現させ、
蜀漢王朝の都を置いた四川省成都市に留学していた。

日本語学科の学生と交流する上で、必ず聞かれる留学の理由。

中国語を学ぶなら首都である北京の方が普通だし、
それなら理解、納得できるのに、
何で態々標準語ではなく、
四川弁が日常会話と地盤を固めている成都を選んだのかと
挨拶がわりに聞かれた。

奇怪な日本人

本当の理由は「あの世で孔明先生に会うため!」だが、
その本音は分かってもらえないだろうと感じたし、
何よりも孔明先生への想いを馬鹿にされたくない、
土足で踏み入られたくないという思いから
「三国志が好きだから」と総合的で、無難な答えを言い続けた。

私にとっては本音を隠すための無難な公式発表だったが、
彼らにとっては

「あなた、奇怪です。変です。変わっています」

目を丸くして賞賛するに値したらしい。

高校を卒業するまで、成績が良くても悪くても
「真面目だね」と言われ続けてきた私にとって
「奇怪」は褒め言葉だった。

嬉しいけど、残念!!

勉強する姿勢や授業態度が真面目なのは学生として当然だと思うが、
性格が真面目というのは何やら融通の利かない、
堅苦しくてツマラナイ人間というイメージを抱いている私にとって
「変な人ですね」「変わっていますね」と言われるのは快感だった。

だがその一方で、三国志の聖地に来てこの反応……。

その点においては、もっと三国志ファンが多いと思っていただけに
正直、がっかりした。

人生を変えた手紙

そんなある日の授業で「中国語で手紙を書く」宿題が出された。

私が振り分けられたのは、当然、中国語の入門クラス。

それまで、同じ国の、同じ年齢の人としか
同級生になったことがなかったが、
留学生のクラスは国籍も年齢も様々。

国際色と個性豊かな同級生に囲まれた留学生活。

英語圏の人がいようが、
国際的な公用語は英語だろうが関係なく、
教室内では中国語だけが全てというのが実に心地よかった。

この時に知り合った親子ほど年の離れたフランスの親友とは、
今でも中国語で交流を続けている。
これも留学すればこその醍醐味と言えるだろう。

自己主張を当然のようにできる同級生たちに囲まれた状況下で出された宿題。

彼らに負けず、
自分の想いを中国語で伝えられるようになりたかった私は
思い切って「諸葛孔明先生へ」と銘打って
生まれて初めて中国語で手紙を書いた。

孔明先生から返事が来るはずもないが、
それでも辞書と格闘しながら、気合いで単語を繋ぎ合わせ、
ずっと伝えたかった熱い想いと愛を込めて提出した。

それだけで十分に自己満足感に浸れた。

いつもは宿題ノートに「よく出来ました」とだけ書かれているので、
特に何かを期待することなく、
運が良ければ、上手く孔明先生に伝わるような文に直してくれるかな、
程度の冀望を抱きながら宿題を提出した。

 

「恩師」と呼べる唯一の人

その当時の私に出来る、有りっ丈の中国語力で書かれた手紙は、
どんなに頑張っても僅か一頁にも満たなかった。

だが、翌日返された宿題ノートには、
行間を空けずギッシリと三頁近くにわたって返信が書かれていた。

書かれている中国語は初心者には難解なレベルだったが、
それくらい真剣に私の想いに応えるように書かれた返信。

孔明先生から返事が来ないのは百も承知だったが、

「あの世で孔明先生に会って、話をしたいので成都に留学しました」

成都で初めて留学動機を吐露した結果

「とっても、とっても感動しました!
なぜ成都に来たのかやっと解りました。
あなたの魂を感じました!」

ツギハギだらけの中国語の合間から溢れ出る情熱を、
しっかりと受け止めてくれた担任の先生は女性だったが、
私と同じで兄の影響で三国志が好きになり、
その中でも特に孔明先生を尊敬しているという。

そんな共通点もあり、孔明先生への想いだけで高校卒業後、
なんの伝手も頼れる人もいないまま成都へ留学したことに感動した!
と孔明先生に代わって熱い返信をくれたのだ。

この宿題の一件以来、彼女は親身になって私の中国語だけではなく、
不慣れな中国での生活へのアドバイス、
そして何よりも私が孔明先生への尊敬愛を極められるよう
熱烈に支持、応援してくれるようになった。

私だけが特別なわけではなく、
真面目に取り組んでいる学生であれば、
どこまでも、自身の時間を割いてまでも、
真剣に懇切丁寧に全身全霊で向き合い、付き合ってくれた。

そんな彼女とは今でも交流が続いており、
彼女は私の人生で唯一「恩師」と呼べる人である。

そんな奇跡の縁に恵まれたのも、偏に孔明先生のお導きによるものだが、
私が最も救われ、中国語を学ぶのが好きになったのは、
初めて中国語を教えてくれた先生が教科書通りの正しさよりも、
伝えたい中国語に込められた想いや情熱を引き出し、
何よりも心を汲んでくれる先生だったからというのが大きい。

日本ではそのような先生に出会ったことが一度もなく、
教師は夢を壊す敵としか認識していなかった私にとって、
心を汲んでくれる彼女の存在がどれだけ大きな衝撃と感動を与えたのかは想像に難くないだろう。

 

十代の夢、実現!

 

成都へ留学して二ヶ月後。
中国語がまだまだ不案内だったにも拘らず私は、
何がなんでも、十代のうちに行く!
と心中密かに描いていた夢を実現させるべく、

孔明先生が永眠する聖地、武侯墓への一人旅を決行した。

中国語がもっと上手になってから、検定に合格してから、
という客観的な条件付きではいつになったら実現されるか分からなかったし、
何より、思考より、身体より、魂が行きたくて、行かずにはいられなかった。

中国語を試そうとか、留学生活の特典を活かそうといった
向学心や好奇心は微塵もなく、あるのはただ
「孔明先生に会いたい」その想いだけだった。

残り半年の十代という限られた時間の中で、
理由も意味もなく、
ただただ我武者羅に孔明先生に会いに行きたかった。

時間の後悔だけはどんなに知識や経済力が増えても、
どうすることもできない。

ましてやコロナ禍で体験しているように、
時間とお金さえあれば、いつでも、どこでも、
行きたいところへ行けるとは限らないと痛感した近年。

行かずには死ねないと思える場所があるのなら、
行けるうちに行くべきである。

会いたい人がいるのなら、会えるうちに会うべきである。

私にとって行かずには死ねない、生まれて初めての一人旅が、
中国の列車に片道十二時間も揺られる、
情熱だけが武器になる旅になろうとは、
孔明先生に出会う前の自分には到底、想像できるものではなかった。

だが、だからこそ生きた甲斐のある人生を享受できるというものである。

草になりたい!!!

そしてついに、十三歳の頃からずっと大事に握りしめていた想いが、
黄昏色に染まった武侯墓で解放された時、
宇宙を感じさせる空間に包まれ、全身が、心臓になった。

大脳が作用するのを拒みながら心に吸収されていく中、

「武侯墓を護るように生い茂っている、あの草になりたい」

そう願うのが精一杯だった。

そんな想いを誰かに知って欲しかった私は、
初めての一人旅を終え無事に成都に帰った後、
作文の宿題に情熱をぶつけた。

中国語は相変わらずのツギハギだらけだったが、
恩師は私が伝えたいことを全て汲み上げてくれた。

日本中国問わず、私の心を重視して作文を見てくれた先生は
後にも先にも彼女だけである。

「感動が伝わってきて、一緒に旅している気持ちになれた!
草になりたいってあの一文は心底、感動した!」

解ってくれる人は、心で解ってくれるものだと思った。

後年、恩師から聞いた話だが、この作文の宿題を出した時、
文法的に問題のない、正しい中国語で書かれた優等生の作文よりも、
荒削りでも情熱がほと走る私の作文に心動かされ、感動したという。

中国では男女問わず、優秀な人は遠慮なく抜擢されて海外へ派遣されるので、
私の留学中、恩師はフランスや韓国へ単身赴任をしており、
彼女の元でしっかりと学べたのは最初の一年だけだった。

恩師は数年前に退職したが、
成都での授業ではもちろん、海外の赴任先の授業でも、
悉く私の話をしてくれたという。

「他にも三国志が好きで留学している学生や、三国志が好きな中国人は大勢いるけど、
あなたは次元が全然違う」

とさえ言ってくれて、それだけでも恐縮してしまうが

「あなたと出会えたことは、私の人生に於いて、とても幸せで光栄なこと」

ここまで言われると、嬉しすぎて気絶してしまいそうになる。

 

情熱とは、天賦の才である!

 

心を何よりも大事にしてくれる恩師には、
中国語だけではなく、人として生きる上で大切なことを学んだ。

中学一年の時の担任教師に、
彼女の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいである。

恩師は度々、情熱が私の天賦の才であると言わんばかりに、

「中国語はいくらでも教えてあげられるけど、
情熱だけはどうにも出来ない。
こればかりは本人次第、心から敬服するわ!」

事あるごとに私の存在と情熱の炎が消えないよう、親身になって支えてくれた。

恩師は口先だけではなく、本当に私の存在を誇りに思っていてくれて、
公私において事あるごとに話題に上げてくれていたらしい。

孔明先生、反日思考を凍結す

例えば、中国語を外国人に教えている先生たちの会合が開かれ、
北京で教壇に立っている先生と恩師が、
互いの状況を話し合った時に、北京の先生は

「日本人留学生は中国語の上達は速いが、
中国への敬意がまるで感じられない」

たまたま、運悪く、
感じの悪い日本人に当たってしまっただけだと思うが、
日本人留学生の態度があまりにも悪く、
ただでさえ好きではないのに、益々嫌いになってしまったと、
反日感情を露わにし、

恩師にも

「成都へ留学に来る日本人も似たようなものか、
或いはもっと非道いのではないですか」

共感を求めたらしいが、

「実は、私の教え子に
諸葛孔明を心から尊敬している日本人がいて、
彼女はあの世で諸葛孔明に会った時に備えて、
中国語が話したい、中国の文化を知りたいと、
そのためだけに蜀漢王朝の首都である成都に
六年も留学したんですよ!」

恩師が熱弁を振るうと

「え? 諸葛孔明?」

孔明先生、現代人をも走らす

北京の先生の、日本に対する怒りが
瞬時にして凍結したのは、
孔明先生の偉大さがなせるわざ。

今でも多くの中国の人に、
畏れながら愛されている孔明先生だからこそ

「そんな日本人が本当にいたんですか?
もしかしたら、私は相手が日本人だからと、
それだけで先入観を持っていたのかもしれません」

日本人に対しての偏見に気付かせ、
反日感情を緩和させることが出来たのだ。

まさに「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

仲達のみならず、現代人をも走らせる孔明先生。

私自身も今日まで何度となく孔明先生に走らされてきたが、

日中関係に於いてもその偉大さを私自身が痛感、体感した経験がある。

孔明先生、反日空間を打破す

それは成都に留学して二年が経った頃。
孔明先生に少しでもお近づきになりたりたい一心で、
孔明先生が愛した楽器「古琴」を学んで間もない頃の話だった。

『三國志演義』の名場面、空城の計で孔明先生が奏でた楽器が古琴である。

空城の計そのものは、著者である羅貫中の創作だが、
古琴は当時の文化人であれば誰でも常識レベルで奏でていた楽器。
わざわざ史書に記載する必要もないくらい日常生活の範囲内で、
当然のように弾かれていた楽器だった。

古琴を学んで半年後、基礎段階が終わり、
初めて曲を教えてもらった時だった。

蜀派の琴師として有名な師匠がテレビの取材を受けることになった。

「先生、頑張ってください。放送楽しみにしています」

私にとっては、言わば他人事だったので気楽に構えていたが、
取材当日のその日、突然師匠から電話がかかってきて、何事かと思いきや

「せっかくだから、取材を受けて演奏をしてみよう」というではないか。

「いやいや、先生。私この前、初めて曲もらったばかりだし。超下手だし」

「全然大丈夫、じゃあ、よろしく」

 師匠はとてつもなく厳しい人なので、
反論する隙も権限もなく、私は師匠の家に急いで向かった。

「古琴を学んだ切っ掛け、動機は?」

 気の強そうな、仏頂面した女史が
威圧感たっぷりに事務的に訊いてきたので

「孔明先生を尊敬していて、それでー」

 師匠の家の中心で孔明先生への尊敬愛を叫ぼうとしたら

「え? 何? 待って! ちょっとカメラ止めて!」

インタビュアの女史は一度目を大きくして私を凝視するとカメラを止めさせ、
師匠の前にツカツカと歩み寄った。

(私、何か言っちゃいけないこと言っちゃった?)

 規制に引っかかるような発言は一言もしていないはずなのに、
なぜか取材中断。
テレビカメラに向かってインタビューをされる緊張とは別の緊迫感が私を襲った。

日本人が〇〇出来るの?

「彼女、日本人でしょ?」

 女史は師匠に私の身元を確認した。

「日本人なのに……諸葛孔明を?
日本人なのに……日本人が中国人を尊敬できるものなの?」

え? 何? 待って! 今度は私が訊きたくなった。どういう意味?

「ああ、それ?」

 取材ということもあり、師匠はいつもと違って上機嫌。

「今の日本人は、特に若い人は、
三国志とか春秋戦国を好きな人が多いし、
中国人よりも真面目に研究している人が多いくらいだよ」

穏やかな口調で女史に説明してくれたので、
私はやっと、女史が驚いた意味を理解することが出来た。

当時はまだネットが普及していなかったこともあり、
彼女を始めとする多くの中国の人の中では、
日本人は第二次世界大戦で侵略した時の印象が強く、
中国に対して敬意も好意も持ち合わせていない、
忌み嫌う存在だったのだ。

その日本人が、千八百年も前の中国の偉人を尊敬していることが、
彼女の中では取材を中断するに値するほどの大事件だったようだ。

「そう……なんだ」

師匠の言葉に納得して、
再び私の前に来てマイクを向けた女史はさっきの人とは別人?
と思えるくらい優しい表情をしていた。

半日も経たずに反日を断つ!

「そこはこう言った方が盛り上がるわよ!」

それどころか、一緒に師匠の特番を盛り上げるべく、
どんな言い回しをした方が良いのか適切なアドバイスをくれるほど、
寄り添ってくれた。

師匠と女史のためにも、と緊張しながら
習いたての曲を弾き終えると

「頑張ったわね! とてもよかったわよ!」

笑顔と拍手が温かく包み込む、
日中友好の空間が広がっていた。

「孔明先生を尊敬している」という唯一無二の本音と、
その想いを行動に移す情熱が、
それまで抱いていた日本人への印象をガラリと変えて、笑顔を交わせる仲になる。

これは留学しなければ到底実現できない国際交流である。

だが、孔明先生と古琴がくれた縁は、これだけに留まらなかった。

日本にいては、到底足を踏み入れることのできない世界への扉さえ
孔明先生は当然のように開いてくれたのだった。

私の本当の人生はここから始まったと言っても過言ではないだろう。