師せる孔明先生、幾度も私を走らす(2)〜孤軍奮闘する危急存亡の秋〜

我まさに、危急存亡の秋なり

私が『三国志』と題された一冊の本と出会ったのは
生死の狭間、ギリギリを歩かされていた、
まさに危急存亡の秋(とき)だった。

歴史は特に好きではなく、興味もそんなにない。

そんな私が、兄が買ってきたばかりの本を、
好奇心を抑えきれずについ、
手に取ってしまったのは、

唯一の趣味が読書だったから。

内容は皆目見当もつかなかったが、
本があったらとりあえず手に取って見たいという衝動だけが
私の命を『三国志』の前に運んだ。

「何、これ?」

それはデジャブでも、前世の記憶でもない。
ましてや文字を読んで想像力を働かせたからでもなかった。

歴史や中国に何の興味も関心もない私が、
千八百年も昔の中国がどんな風だったのか
想像できるはずもないのだから。

そんな私の戸惑いを他所に、
文字が文字ではなくなり、
目の前で繰り広げられていく三国志の世界。

土埃、固唾を呑む音までもが、
生々しい感覚となって降りかかっては、
私の五感を支配した。

あの不思議な感覚と光景は、
三十年以上経った今でも鮮明に覚えている。

まるで私が「本」という名のタイムマシンに乗って、
千八百年前の三国志の世界に足を踏み入れ、
彼らと喜怒哀楽を共にしているような、
そんな鼓動の高鳴りさえも
物語の一部となって刻み込まれているような、
そんな時空間がそこにはあった。

今思えば『三国志』と書かれた本の扉は、
千八百年の時空を超える扉だったのかもしれない。

私だけではなく、三国志にハマった人はみんな、
同じような体験をしたのだろう。

三度の飯より三国志

ふと気付くと「三度の飯より三国志」ブームが
行く先々の書店で巻き起こっていた。

書籍だけではなく、
人形劇三国志や劇場版三国志など
日本国内で作られた三国志の作品に何度感動し、
泣かされたことか!

好きとか興味あるとか意識する暇さえなく、
ただただ呼吸をするように、
辛い日々から逃れるように、
三国志にのめり込んでいった。

天地人に神仏。

全てが敵にしか見えなかった当時。
同級生や担任の言動に耐えかねながらも、死ぬに死ねない。

生死の瀬戸際で自分を騙すように生き、
傷付けらたくないと心を閉ざしたことで
無感情、無愛想、無反応と言われていた私の中に、
感動して流す涙や、溢れ出る感情が人並みに備えられていたのだと、
人として生きていけるのだと三国志の英雄達は気付かせてくれた。

命を運んだところに運命が開ける、と言うが
私の命と人生を救ってくれたのは、
神様でも仏様でもなく、三国志の英雄達だった。

『三国志』は戦乱を舞台とした歴史物語だが、
私は三国志の英雄達に人間としての温かさと、何よりも

「会うべき人達にやっと再会できた!」

出会いというよりも、再会を果たせた喜びを強く感じた。

1800年の時空を超えて
三国志の英雄たちと再会を果たした
私の生き地獄的生活はどうなっていくのか?

次回へ続く>>>