請宣大行皇帝遺詔表

諸葛流文霊想作家の玄子(げんし)です。

今日は旧暦の4月24日。

玄徳公の命日なので、玄徳公の遺詔と孔明先生の想いをお伝えします。

まずは原文全文からどうぞ!

目次

請宣大行皇帝遺詔表

伏惟大行皇帝邁仁樹德 覆壽無疆

昊天不弔 寢疾彌留 今月二十四日 奄忽昇遐

臣妾號咷 若喪考妣

迺顧遺詔 事惟大宗 動容損益

百寮發哀 滿三日除服 到髒期復如禮

其郡國太守 相 都尉 縣令長 三日便除服

臣亮親受勅戒 震畏神靈 不敢有違

臣請宣下奉行。

大行皇帝って誰?

タイトルにある大行皇帝とは誰のことなのか?といえば

大行皇帝とは、ここでは玄徳公のこと。

古代漢語@メモ_φ( ̄ー ̄ )

大行:元々は行って戻らない、という意味。

行ったきり還らぬ人となったのです、的な感じです。

なぜ態々そんな言い方をするのか?といえば

皇帝が亡くなった、死去したという直接的な言葉を避けるため敢えて還らぬ人となった、と比喩的に使っているそうです。

また漢の時代以降(から、いつまでかは知らんでござる。知りたければ各自どうぞ)

崩御して、まだ棺が埋葬されていない状態の旅立たれたばかりの帝を大行皇帝と呼んでいたそうです。

孔明先生がこのに遺詔を公にした時点で、玄徳公は崩御していたけれど、まだ棺は永安宮にあって埋葬されていない状態。

なので、この時点では出師表のように「先帝」ではなく「大行皇帝」なのです。

ちなみに、、、

4月24日に玄徳公崩御。

5月に玄徳公の棺は護られながら成都に涙のご帰還。

この時に「昭烈皇帝」と諡されています

そして8月に惠陵に埋葬されました、とのこと。

以上の日程報告は史書「三国志」より陳寿の証言でお送りいたしました。

タイトルがわかったところで、内容に入ります。
*より時空の壁を越えやすくするため、大行皇帝の部分は途中で「誰だっけ?」と現実に戻らなくても済むよう
玄徳様、と表記します。

伏惟大行皇帝 邁仁樹德  覆壽無疆

伏す+惟(おも)う→伏して思う、と意味もわからず使いたくなるところですが^^;

日本語の伏しては、折り入って丁重に頼むときにいう語。
とありますので勢い余って漢字だけでなんとなく流さないように注意いたしませう。

古代漢語@メモ_φ( ̄ー ̄ )

古代中国語では、敬語です。
しかも、誰にでも使えるものではなく、
君主に対して尊敬して恐れる、畏敬するという意味合いを持つ伏。

ここでいう尊敬し、畏敬の念を抱いている君主とは、当然!劉禅ではなく、玄徳公です。

伏惟:古代中国で身分が上の人に話すとき、或いは上奏文の始めによく用いられた謙虚さと尊重を表す言葉

:力を尽くす

:樹立する

覆壽:覆う

無疆:無限

この意味を踏まえた上で、この文霊を意訳すると

(畏敬する)玄徳様は仁を尽くし
無限に天地を覆うほどの徳を樹立されました。

人はいつかは死にます、と周瑜殿。
それが人の天命とはいえ・・・

昊天不弔 寢疾彌留 今月二十四日 奄忽昇遐

昊天不弔:天命は不幸にも

昊天:天命。

不弔:不幸、不祥。

寢疾 :重病

彌留:長い間、病が癒えることなく

今月二十四日 :旧暦四月二十四日。

奄忽:忽然と

昇遐:天子が崩御した時に使われていた言葉です。


このまま、普通に訳すと

天命は不幸にも重病が癒える事なく、(玄徳様は)今月二十四日に忽然と崩御してしまいました

ですが!

重病が癒えず、崩御した玄徳公の天命は不幸なのか??

疑念が湧きました。
というのも、玄徳公自らが、子供たちに当てた遺言の中で注目して欲しい一言がこれ!

人五十不稱夭 年已六十有餘 何所復恨 不復自傷
(五十歳で死んでも夭折とは言わないのに、六十年余りも生きたんだ、なんの恨みがあろう?何を悲しむことがあろう?)

玄徳公のこの文霊がなければ、天命は不幸にも〜のままでしたが

玄徳公自身波乱の人生を生き抜いて、潔く天命を受け入れようとしているような、そんな想いさえ感じられます。

乱世でありながら人徳を武器に生き抜いた玄徳公の生涯を不幸という言葉で終わらせたくないので

天命は不幸にもではなく、天命変え難く、と解釈しました。

なので、この箇所の私の解釈は

天命変え難く。
重病は癒える事なく、(玄徳様は)今月二十四日に忽然と崩御してしまいました

ちなみに、玄徳公の言葉は自分の天命を恨んだり、悲しんだりはしていないが、、、
息子たち!お前たちが気がかりすぎる!
丞相の言うことをしっかりと聞いてくれれば、私が思っている以上の人間になれるとおもう。
くれぐれも丞相の言うことはしっかり聴くんだぞ!と続けています。

この遺言、守ってくれていれば蜀の天命も不幸にならなかったかも・・・( i _ i )

それと同時に、息子ほど歳の離れた孔明先生がいてくれて、
それまでずっと生死を共にしてきた趙雲殿もいてくれたからこそ
玄徳殿は天命を恨むことなく、悲しむことなく関羽殿、張飛殿の元へいけたのだと思います。

でも・・・遺された方は、悲しみが尽きません。

臣妾號咷 若喪考妣

臣妾:臣下。臣は男性、妾は女性の臣下。
男女問わず皆。

號咷:大声をあげて泣く、慟哭

若喪考妣:父母を亡くしたかのように。
考は父親、妣は母親を亡くしたという意味。

この文霊の意味は

玄徳公を失った蜀国の人は皆、
父母を亡くしたかのように、嘆き悲しんでいる

孔明先生自身、幼くして両親を亡くしています。
両親よりも玄徳公と過ごした時間の方が長かった孔明先生にとって
玄徳公との別れは、幼い日に両親を失った時以来の悲しみだったのかもしれません・・・。

孔明先生を迎え入れた年に生まれた実子の阿斗坊や。
言うまでもなく、その悲しみは人一倍だったことでしょう・・・

が!時は戦乱。玄徳公を失った蜀は危急存亡の秋です。

 

迺顧遺詔 事惟大宗 動容損益

:だが、しかし!
ここでは、玄徳公を失ったからと言って、悲しんでばかりはいられません!
という意味を込めました。

顧遺詔:遺詔により

事惟大宗 :今後、国家のあらゆることは大宗に委ねられたのです。
大宗とは後継である劉禅のことです。

動容損益:これからは皇帝となる劉禅の一挙一動が国の損益に影響を与えることになります。

この文霊の意味は

(玄徳様が崩御されたからといって)
悲しんでばかりはいられません。

遺詔により今後、国家のあらゆることは大宗に委ねられたのです。
これからはその一挙一動が国の損益に影響を与えることになります。

劉禅太子に後継者はあなたです!悲しみに暮れている場合ではありませんよ!と
自覚と責任を持たせています。

そして孔明先生の心労もこの日から始まったのかもしれません、、、。

後継者争いもなく、劉禅が跡を継ぐことになりましたが、まだ十七歳。
それまで何の実績もなく、この時点で記憶にあるのは趙雲殿に二度も救われた坊やってだけ!
そんな坊やがテキパキと政務をこなせないのは当然です。

が!魏も呉も坊やの成長を待ってはくれません。
虎視眈々と狙っているのです。

そんな状況だったので、悲しみに明け暮れる時間さえ限られていました。

 

百寮發哀 滿三日除服 到髒期復如禮 其郡國太守 相 都尉 縣令長 三日便除服

ここは業務連絡ですのでササっといきます。

文武百官はそれぞれの想いや悲しみを胸に玄徳様を追悼し、
三日経ったら喪服を脱いで通常通り職責を果たすように。
棺を埋葬する時、再び儀礼に則って喪服を着て葬儀を執り行う。
太守らも同じく三日経ったら喪服を脱いで通常業務にあたるように。

本来であれば、三年間喪に服したいところですが、危急存亡の秋です。
悲しみに長時間明け暮れている余裕はないのです!

病が悪化し、死期を悟った玄徳公は事前に孔明先生を成都から呼び寄せて
今後のことを相談したと言われています。

三日経ったら通常業務、という判断も玄徳公と話し合ってのこと。
助かることを願いながらも、天命を変えられなかった場合を想定して
死後のことまで真剣に話し合う、そして託す。

孔明先生に後事を託した玄徳殿は安心できたと思いますが

・・・託された孔明先生は・・・

 

臣亮親受勅戒 震畏神靈 不敢有違

勅戒:辞書の意味では戒めを受ける、ですが
玄徳公と孔明先生のやり取りから、ここでは後事を託されると解釈。

震畏神靈:深く感動すると同時に(玄徳公の)神霊を畏れおののく

不敢有違:「勅戒」に違えることはありません。

以上を踏まえた文霊の解釈は

臣(私)、亮は玄徳様に直接、後事を託されました。
深く感動すると同時に、玄徳様の神霊に畏敬の念を抱いています。
(崩御されたとはいえ、玄徳様への忠節は変わることなく)
勅戒に違えるようなことはありません。

この日から、五丈原で最期を迎える日まで孔明先生を支え奮起させたのは、
玄徳公の勅戒と言えるかもしれません。

この遺詔が公布されてから、孔明先生の戦いは始まるのです。

臣請宣下奉行

今ここに、遺詔を公布し速やかに施行するよう求める。

以上!ここまで。

 

玄徳公が人徳の人であること。
その玄徳公を失った蜀国内の雰囲気。
悲しみの真っ只中にありながらも戦い続けねばならないこと。
孔明先生が後事を託され覚悟を決めたこと。
言葉数の少なかった玄徳公の遺詔らしく限られた文霊に込められた想い。

古代漢語の意味や、私の解釈をベースにご自身なりに自分で腑に落ちる解釈ができたら
当時に思いを馳せ、玄徳公を偲んでお過ごしください、、、。

玄子